有馬家育英部 初代総裁。旧筑後国久留米藩主有馬家 14代当主。
有馬育英会の前身となったのは、旧久留米藩(現・福岡県久留米市)の藩主だった有馬家の育英部です。
有馬家育英部は、八女浮羽四群の現住者または縁故者に学費を補給し、将来の人材を育成する事を目的として、 明治三十九(1906)年に設置され、藩校であった明善堂(現・福岡県立明善高等学校)を中心に多くの奨学生を輩出しました。
有馬育英会 創設者。 旧筑後国久留米藩主有馬家 16代当主。
経歴
伯爵有馬頼寧の三男として東京市赤坂区青山に生まれる。母貞子は北白川宮能久親王の第二女子である。
社会派推理小説の作家。1954年「終身未決囚」により直木賞受賞。シリーズ化された映画「兵隊やくざ」の原作小説「貴三郎一代」など様々な小説を世に出している。
頼義氏は、志の高い子弟の中に、学術優秀、品行方正、身体強健でありながら、経済的に恵まれないために 高等教育を受けることが出来ない者がいることを深く憂慮していました。
これら有為の青年に対して一定の学資を貸与して、社会にとって有用な人材を育成できないかと考え、 同郷出身の有志とともに、戦後のどさくさで中絶していた育英部を復活再興して、「財団法人 有馬育英会」を設立しました。
実業家。ブリヂストンの創立者であり当育英部の奨学生。
戦後壊滅状態になっていた育英部を石井光次郎氏とともに立て直し、育英会として設立しなおした。
後に久留米市篠山城跡(現在、篠山神社境内地)に有馬記念館を設立。有馬記念館は久留米市へ寄贈され、久留米郷土史にまつわる多数の貴重な資料を保管し、現在も頻繁に催される企画展などで市民に開示している。
政治家。副総理・国務大臣などの政府要職を歴任。 学生時代の6年間、育英部の奨学生特待生として勉学に励んだ。
先輩の石橋 正二郎氏とともに育英部を立て直し、育英会として設立しなおした。
2代 忠頼公 | 菊池 東匀(林羅山推挙。漢書学者。医学者) | 藩士に儒学を授け、久留米の学問の基礎を築いた。 |
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3代 頼利公 | 真名辺 仲庵(山崎闇斎門下。医者、儒学、国学者、歌人。久留米地誌「北筑雑藁」著) 長沼 宗敬(儒者、軍学者。長沼流兵法創始) |
藩士子弟に学を授けた。 |
4代 頼元公 | 中村 惕斎(京都朱子学派) | 御学問初めの儀礼を創始。民間にも儒学研究が波及。 |
6代 則維公 | 合原 窓南(儒者。浅見絅斎門下。山崎闇斎学派。初の久留米藩出身の藩儒) 湯川東軒(儒者、兵学、経営者。伊藤仁斎学派。「経済内概論」著) 伊藤竹里(儒者。伊藤仁斎の子、伊藤東涯の異母弟) |
藩主自身学を好み、領民の庶民から初めて合原窓南を儒官に迎える。 城内、内殿にて東軒、外殿にて窓南が講じた。 |
7代 頼徸公 | 高山 畏斎(留守希斎門下。農家出身。久留米藩発の公立学問所設立) 宮原 南陸(合原窓南弟子) 梯 箕嶺(亀井南冥門下) 広津 藍渓(儒者。藩校「講席(修道館)」設立) |
藩主自身学究心深く、数学の大家。 当時の数学としては最高水準の書を刊行した。 高山畏斎を起用して久留米藩初の公立学問所を設置。 |
8代 頼貴公 | 樺島 石梁(細井平洲門下。藩校「明善堂」設立) | 藩校「修道館」焼失後、再建し「明善堂」を創設。 |
9代 頼徳公 | 本荘 星川(頼永公侍読。「補導規範」著。反・天保学、朱子学派) | 本荘に命じ明善堂の学制を統一。 |
10代 頼永公 | 岡永 嘉右衛門(侍読。佐藤一斎弟子) 野崎 平八(三名臣の一人) 村上 守太郎(三名臣の一人) 今井 栄(三名臣の一人) |
藩主は稀代の賢君。「生神様」とも慕われた。 藩主の旨とした「節用愛人」の美風は領民にも伝播し、藩の民風を一新したほど。蘭方医の優秀を認めるなど開明的思想ももっていた。 |
11代 頼咸公 | 不破 美作(藩校の大改革。文武両修の「学館」を設立。開国開花の進歩思想家) | 私財を教導費として教部省に献上。私費で蛎殻町の邸内に私学「報国学社」設立。日本橋区内小学校の建築費を寄付するなど、奨学育英に献身した。 |
14代 頼萬 | 当財団の前身、有馬家育英部を創設。 |
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15代 頼寧 | 労働学校「信愛学院」創設。夜学校で自ら教壇に立った。 前後して白鴎女学校、久留米家政女学校創設。 農村への職見を注目され、第一次近衛内閣農林大臣。 |
16代 頼義 | 作家。第七次早稲田文学編集長。 短編集「終身未決囚」にて第三十一回直木賞受賞。 「四万人の目撃者」にて探偵作家クラブ賞。「東京空襲戦災誌」にて第二十二回菊池寛賞。 |